「今月も、あんなに夜勤を頑張ったのに」——給与明細を開いて、思わず小さなため息をついたことはありませんか。ニュースでは「2026年度、看護師の賃上げ」と大きく報じられているのに、自分の手取りはほとんど変わらない。むしろ社会保険料が上がって、去年より少ないような気さえする。
私も、30年の現場で数えきれないほど、この静かながっかり感を味わってきました。お金の話は「はしたない」のではありません。あなたの労働の、正当な値段の話です。
「上がるはず」と「上がらない」の間にある谷
まず知ってほしいのは、「賃上げが決まった」ことと「あなたの口座に届く」ことは、まったく別の出来事だということです。2026年度の診療報酬改定は改定率プラス3.09%と、実に30年ぶりの高水準でした。看護職員の処遇改善を担う「ベースアップ評価料」も、これまでのおよそ2〜3倍に引き上げられ、試算では月額でおよそ4,000〜12,000円の増額が見込まれます。ところが——この原資は、国からあなたへ直接振り込まれるわけではありません。いったん病院という器を経由し、その病院がどう配分するかを決めて、初めて手当や基本給というかたちであなたに届きます。制度は自動販売機ではありません。ボタンを押す人がいて、初めてお金が出てくるのです。
給料が上がらない、3つの原因
では、なぜ「上がるはず」が「上がらない」に化けてしまうのか。私が現場で見てきた原因は、大きく3つあります。
1つ目は、ベースアップ評価料は「全員に等分」ではないことです。この原資をどの職種に、どんな割合で配るかは、最終的に各医療機関の裁量に委ねられています。事務職や他職種にも配分され、看護師一人あたりでは薄まってしまうことも珍しくありません。同じ「賃上げ」でも、隣の病院とあなたの病院で結果が違うのは、この配分ルールの差なのです。
2つ目は、夜勤手当が10年以上、ほぼ据え置きだという現実です。日本看護協会の調査でも、二交替制夜勤の1回あたりの手当は医療法人でおよそ13,000円、公立でおよそ9,000円。全国平均でも2交代でおよそ11,000円台にとどまり、2010年代以降ほとんど上がっていません。いちばん心身を削る労働が、いちばん置き去りにされている——これが数字の示す事実です。
3つ目は、少し耳の痛い話ですが、「交渉しない文化」です。私たちは患者さんのためなら何時間でも動けるのに、自分の待遇のこととなると急に口が重くなる。「お金のことを言うと、意地汚いと思われないか」。メンタルヘルスの視点で言えば、これは自己肯定感の低下と深く結びついた、看護職に非常に多い思考のクセです。ある後輩は、5年間一度も交渉せずに、相場より月2万円低いまま働き続けていました。我慢は美徳ではなく、静かに自分を安売りする習慣になり得ます。
感情ではなく「数字」と「言葉」を味方につける
ここからは、明日を変えるための現実的な方法です。大切なのは、怒りや不満という感情ではなく、「数字」と「言葉」を武器にすること。第一に、自分の市場価値を数字で知ること。同じ経験年数・同じ地域で、他院がいくら出しているのかを知らなければ、交渉のスタートラインにも立てません。第二に、制度の言葉を覚えること。「ベースアップ評価料」「看護職員処遇改善評価料」——この二つの単語を面談で口にできるだけで、相手の対応は驚くほど変わります。第三に、記録を残すこと。あなたの残業、夜勤、委員会活動は、言葉にしなければ「なかったこと」にされてしまいます。感謝は言葉にしなくても伝わりますが、待遇改善は言葉にしなければ絶対に伝わりません。
今日、15分でできること
いますぐ始められることを挙げます。まず、直近3か月の給与明細を並べ、「基本給」「夜勤手当」「処遇改善手当」の3つに色分けして書き出してみてください。処遇改善手当の欄が空白、あるいは驚くほど少ない場合、それがあなたの「上がらない理由」の正体かもしれません。次に、その金額を相場と照らし合わせる。そして最後に、次の面談で使う一文を用意しておく。「ベースアップ評価料の配分について、看護部への反映状況を教えていただけますか」——角を立てないこのひと言で十分です。準備した言葉は、緊張しても口から出てくれます。
相場を知り、頑張りを手元に残す
自分の相場を知る第一歩として、いますぐ転職するつもりがなくても、求人情報を眺めてみるのはとても有効です。同じ夜勤回数で、他院がどれだけの条件を出しているのか。数字で見えると、交渉の言葉にも自然と芯が通ります。こういう選択肢もある、という気軽な気持ちで、まずは無料で市場を覗いてみましょう。
そしてもう一つ。上がりにくい給与を守るのは「入口」だけでなく「出口」の工夫でもあります。夜勤手当という頑張りの結晶を、固定費の見直しやポイ活で少しでも手元に残す。そんな家計のセルフケアも、立派な自衛策です。
お金の不安は、静かに心を削る
メンタルヘルスの専門家として、もう一つ伝えておきたいことがあります。それは、給与への不満を「ぜいたく」だと自分を責めないでほしい、ということです。お金の不安は、家計の問題であると同時に、自己価値の問題として心に食い込んできます。夜勤明けの疲れた頭では、その二つが簡単に混ざり合ってしまう。だからこそ、待遇の問題は「制度の話」として切り分け、あなたの人間としての価値とは別のものとして扱うことが、心を守る第一歩になります。あなたの価値と、あなたの給与明細の数字は、決してイコールではありません。
具体例を挙げます。私が関わったある30代の看護師は、夜勤を月8回もこなしながら、手当の内訳を一度も確認したことがありませんでした。一緒に明細を並べてみると、手当が反映されていない月が混ざっていた。彼女は怒るより先に、「知らなかった自分が情けない」と言いました。けれど、知らなかったのは彼女のせいではありません。誰も教えてくれなかっただけです。知ることは、責めることではなく、自分を守ることです。
まとめ——あなたの夜勤には、ちゃんと値段がある
給料が上がらないのは、あなたの努力が足りないからでは決してありません。制度と現場の間にある「谷」を、まだ誰も渡してくれていないだけです。数字を知り、言葉を持ち、記録を残す。この3つがあれば、あなたはもう「黙って我慢する人」ではなく、「正当に交渉できる人」になれます。私自身、それに気づくのに何年もかかりました。だからこそ、あなたには今日から始めてほしいのです。あなたの夜勤には、ちゃんと値段があります。その値段を、まずあなた自身が一番に認めてあげてください。あなたのキャリアを、心から応援しています。

